「生」と「死」と「私」

今日は、生きて行く上で重要な「生」「死」について考えてみたいと思います。

仕事柄「生」「死」について考える機会が多く、その答えを探していました。

現段階で私が思う生死を苫米地英人氏の著書を参考に書いてみたいと思います。

まず、「生」「死」を考える前に「私(自我)」を考えてみましょう。

「私」とは何かを考えると、2つに分けて定義することが出来ます。

1つ目が、物理的な私です。今この世の中に存在する私で、貴方の前にいる私。目に見える存在で、誰が見ても明らかな状態を物理的な存在(私)と定義します。

次に

2つ目は、情報的な私です。つまり、妻がいて子供がいて、好きな食べ物は寿司、お茶を習い、高校時代は全国大会に出場し等々・・・このような情報により定義できる私で、対象となる人やモノがあってはじめて成り立ちます。

では、これを踏まえ「私」とは何か?ですが・・・(?_?)

生きている状態では、「私」で定義できます☆

つまり、私という物理的な存在があり、その存在を情報的な私で包んであげれば、「私」という存在の出来上がりと言う訳です(>_<)

では、死んでしまった場合はどうでしょう。

まずに関しては、火葬等により既にこの世には存在しないので「私」を定義することは出来ません。

しかし、に関してはどうでしょうか?

死んでしまった後に、私が生きていた情報まで皆さんの頭から消えてしまうでしょうか?

・・・消えませんよね。

つまり、の情報で存在する「私」皆さんの中で生き続けているということです。

こう考えると、生きていても、死んでいても「私」というものは存在することになります。

つまり、私とは「あるようで無い」存在=釈迦の「空」の概念に繋がるということなんですね☆

 

更にもう一歩踏み込んでみましょう。

に関してですが、物理的な存在の私が死ねば火葬され骨となってしまいます。

しかし、私をもっともっと細かく見ていくと、私という存在は「原子」⇒「素粒子」⇒「量子」の集まりでできています。

火葬され私という意識の無い存在となっても、私の体を構成していた「量子」は空気中に存在し、別のエネルギーとなり他の植物を育て、何かしらの役割を担っているのです。

つまり、細かく量子レベルで見ればに関しても「存在している」と見ることが出来るのです。

 

これで、に関してもに関しても「生」「死」の境が無くなりましたね。

「森」と「林」の境目が曖昧なように、「海」と「川」の境目が曖昧なように、

「生」と「死」の境目も曖昧であるということを強く意識して置く必要があるでしょう♬

 

抽象度が上がりすぎたので、いったん抽象度を少し下げて、物理的な私が居て意識ある状態を「生」、物理的な私が無く意識が無い状態を「死」とするなら、

私たちは意識ある今この瞬間をしっかりと生き、次の世代にいい形で繋いでいく必要があるのではないでしょうか☆

この循環が世の中をよくするヒントなのかもしれないですね♬

この世はゲーム。主人公は「私(自分)」です。

「私」というプレイヤーを使い、善き世の中に変えて行きましょう☀

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